雑記

オタクの雑記

『妹の姉』を読んで -「ハダカ」をどう見るか-

RTで流れてきたので『妹の姉』を読みました

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156652911821

※美術高校に通う姉妹の話です。内容は上からどうぞ

 

読んだ感想としては、普遍的なテーマ、わかりやすい構成、よくあるよねこういうの~くらいで

想像以上に拡散されていたのでへえ~と思っていました(私には特に刺さらなかったため)

 

しばらくして感想でも眺めようかな~と「妹の姉」と打ち込むと「気持ち悪い」がサジェストされる

あ~妹気持ち悪いよな。たしかに。と思って見てみると

私の考える気持ち悪いポイントとは違っててええ?!マジ?!いやわかるけど…こんなにたくさんの人がこう思ったの?!

となったのがこの記事を書くきっかけです

 

勝手に引用して申し訳ありませんが、「気持ち悪い」ポイントで挙げられていたものは以下ブログにあるような諸々です

http://lty.hatenablog.com/entry/2019/05/02/135439

 

おおむね理解はできますがいやそれはさ~と考えてしまう

どうして私はそう考えてしまうんだろう?この作品内での女のハダカの扱いがなんで私には引っかからなかったんだろう?何がこの差を生んでるんだろう??

 

この記事はそういった思考の整理と感想のメモになります。長いです

※あくまで個人の感想であり特定の思考を非難する意図はありません

 

▼私について

自身も芸術系に進んでいて妹のいる姉でオタクです 創作物自体は擁護派

以下は上記の立場からの偏った考えが多分に含まれるかと思います

 

▼該当作品について

好きでも嫌いでも無いです

綺麗にまとまっているな~マンガうまいな~という感想で特別斬新さやインパクトは感じていません

個人的にこの作者の作品はあまり肌に合わないと感じているので積極的には読んでいません

 

 

『妹の姉』感想

 ■全体の感想

・普遍的なテーマである

・わかりやすい構成

・ジャンプっぽい作品

・なんか読後感良くないな~

 

●普遍的なテーマである

羨望と理想と現実、姉妹のコンプレックス、天才と努力

下だと思っていた相手に追い抜かれてしまうこと

自分より上の相手に理想化される居心地の悪さ

それから逃げてしまうこと、立ち向かうこと

 

個人的には思春期あるあるだな~みたいな気持ちで読んでいました

後述しますがジャンプっぽさもここに感じています

 

●わかりやすい構成

これも後述しますが「ハダカ」を「描く」をキーに

・妹から理想の「ハダカ」を描かれる

・妹の「ハダカ」を描こうとする

・自身の「ハダカ」を描く

という流れが無駄なく展開していて、なんというか「お利口さんなマンガだなあ」と感じました

 

●ジャンプっぽさ

努力、友情(おそらくこの場合は姉妹愛?)、勝利!

特に最後姉が「努力」によって「天才の妹に理想化された己の姿」を塗り替えるところめちゃくちゃジャンプだな~!!

たぶん掲載誌がアフタヌーンだったら勝てなさそう(?)

ジャンプでいう「殴り合いの末の友情」のようなものがこの作品では「お互いを描き合うこと」で表現されている感じ

同じ土俵に上がる、拳で通じ合う、といった特有の作法(?)を感じました

 

理想の姉でいられることを選ぶ強さとある種の歪さにジャンプの主人公を感じる

姉 怖い(私はジャンプの主人公はおおむね怖いです)

 

●読後感の悪さ

妹は今後もずっと姉のことを尊敬し理想とするだろうし結局姉は妹の理想化した自分と闘い続けることになるんだろうなあとか

妹は自分自身のことどう考えているんだろう?とか

作品内でいったん姉の感情は一つの区切りがついたもののお互いの感情は絡まったままに感じるため

なんというか「めでたしめでたし」では無いよなあ…というすっきりしなさです

たぶん見せ方として「いい感じ風」にまとまってるように見えるのも要因の一つだと思う ちぐはぐ感?

 

あとこれは個人的な感情になるのですが私自身も妹のいる姉であり常々妹よ私を尊敬しないでくれ…個として生きてくれ…と思っているので

そのへんが刺激される居心地の悪さがありました

 

と、ここまでが初見(初読?)のざっくりとした感想だったので世間ではこんな…こんな受け取られ方をしているのか…!!という気持ち…私は…どうして…?

じゃあ引っかかりポイントとしてあげられていた「ヌード」まわりを私はどう考えているんだというのが以下になります

 

 ■作品における「ハダカ」の役割

●「ありのままの姿」という意味での「ハダカ」

ヌードじゃなくて良くない?とか話題性とかインパクトとかとか見かけましたが

いや…ヌードじゃなきゃこうはならんやろ~!というのが私の見解です

(扉絵カラーのヌードでインパクトを狙う意図、あえて倫理観を崩している部分はあると思います)

 

というのも、作品内での「ハダカ」は「ありのままの自分」「自身のイデア」のような意味を担っていると考えるからです

冒頭で自身のヌードが飾られることに主人公は反発していますが、それは単に「身体としてのヌードを飾られることが嫌だ」というのみの表現ではないと感じます

妹の想像で描かれた理想化された自身の「ハダカ」がコンクールで金賞を取る、そしてそれが学校の玄関前に1年も飾られる

 

主人公にとってこの「ハダカ」は現実の自分とは異なる、自分より出来の良い理想化された姿です。

玄関先なので私のことを知ってる人知らない人多くの人に見られてしまう、特待生で入学した「天才」の妹の理想の姉とはかけ離れていることを知られてしまう

そして自身も、妹とも自分とも向き合えていない現状を常に突きつけられてしまう

 

生徒に茶化されているシーンもそれを表しているように見えます

「乳首キレイなんだね」「絵の方が胸もっとあった気が」

という発言に主人公は言い返していますが、おそらく現実の自分と違う理想化された箇所なのだと思います。

そして親戚が集まってきて集合写真。中心には妹の描いた理想的な姉。

「絵の方が実物よりかわいいわね」というセリフがこれこれこれ~!!て感じですが

妹と離れるために「就職」を選んだ姉(アートの世界だと就職は負け組ととられる場合がある)にとって

現実の自分がなろうとしてなれていない理想の姿ばかり見られてしまうことは苦しく屈辱であるだろうと思います

逃げようとしたのに…なんやねん!お前は…いつも……!!みたいな…

(これは完全に勝手な想像ですが、就職を決めた姉のことは家族や親戚はそんなに盛り上がってくれなかったのでは?とも思います

 せっかく美術系に進んだのにねえ…もったいない的なこと言われがち)

(余談ですが、どれかというと私は「乳首キレイ」「胸もっとあったような…」という発言にちょっと引っかかりました

 乳首キレイで胸がある方が勝ってるんかい…みたいな…そもそも肉体に価値として勝ってるも劣ってるも無い…

 それはそれとしてリアルJKだとそう考える方が自然だなと思うので変えて欲しいとかはないです)

(「クラスに男子がいない」、「乳首」「胸の大きさ」について言及していたのは言い返せる関係のクラスメイトの女子であるという点で

 「男性に性的消費されている」という描写をできるだけ避けようとしている意図は感じられます

 私の感情としては指摘されて姉怒ってるやん!も~やめぇや~みたいな気持ち

 ※後述しますが私は乳首や胸の大きさの話をすること自体はポルノだと認識していません)

 

●「ハダカ」を「描く」ということ

前述しましたが、この作品は「ハダカ」を「描く」ということを鍵として展開されています。

ここでの「描く」はおそらく「向き合う」「対峙する」ことです

 

妹の想像で描いた姉は「乳首の色」「胸の大きさ」が現実と異なっていた

これらは服の上(うわべ)からではわからないことです

自分の想像の中でしか姉を見ていなかった妹、妹にはよくできた理想の姿しか見せたくなかった姉

この状態で妹に本当の姉の姿が描けるわけありません

(同時に、妹の描く姉=妹の理想の姉=姉が妹に見せていた姉自身の理想の姿ということで、

 妹の作品は姉にとってかつての自分自身の理想の姿でもあると捉えています)

(ひじから先、ひざから先が隠れているような構図も「姉の全部を見れていない」ことの表れに感じる。姉の自画像は手も足も全身見えるような絵になっていたので余計に)

 

そして姉は妹の「ハダカ」を「描こう」とする

「乳首は真っ黒に描き~」で妹が微笑んでいる(?)のはまあ妹キモイな…てのもありますが

後のセリフにもあるように姉がやっと向き合ってくれた嬉しさの表現かなと

姉の「ハダカ」を「描く」ことで試みた対話が…入学してから離れてしまった姉に対して、姉のことを今も見てるよ、理想の姉だよ、という投げかけ

結局この作品は完成していない(コンクールに出していない)ので

妹のことを見ようとしない姉には妹のハダカは描けませんでした

 

次に先生が妹の作品の説明をしますが、ここでは「裸体」という表記が使われています

今まで「ハダカ」表記だったのを「裸体」としてるのは意図的なものと感じます

というのも、「ハダカ」は上記「自身のイデア」という概念を含んだ象徴的な言葉とされてると思うからです。

ここで「裸体」と表記することにより、今までの「ハダカ」にまつわる云々は現実の裸体という意味だけでなく主人公の主観も混じった概念的なものであることを読者にわからせているのかな?と思いました

現にここで初めて主人公は妹の描いた絵そのもの(技巧含め)、現実の妹自身に目を向けているように感じます

おそらく描かれるモチーフとしての現実の肉体の話をしているのはここだけでは?と思う

(「教え子のハダカなんて初めて見た」これは私もちょっと引っかかっています(意図的に引っかからせる台詞ではあると思うエロマンガみたいだもん)

 このハダカってどういう意味なんだろうなって考えてたんですけどこのハダカ=妹の描いた想像上の姉=姉の理想の姿であるので

 理想として描かれる(裸体をただ描いたという意味以上の象徴としての)ハダカは初めて見たのか?美大ならまだしも高校だし(偏見) うーん

 普通に引っかかりを与えるためだけの台詞な気もする)

 

そしてここから姉は必死に「描き」始める

ニコニコ動画だったらユニコーンが流れ出すんですけど(……)

妹と向き合い妹の中の自分と向き合いそして現在の自分と向き合って導いたこたえが

ふんぞりかえっている姉!これが私だ!ていうやつ

「ハダカとはこう描くものだ」「妹の姉だから」いや~!覚悟~!!て感じます 

「妹の姉」タイトル回収アツイ

このへんどうしてもジャンプやん~~!!みたいなテンションになってしまう

 

「妹の事を見ない様にしていたから妹のハダカを描けない」これがこの作品内で「ハダカ」が何を表しているかの全てだと思いますね…

(余談ですが自画像ってどうやっても写真を撮ったり鏡に映したり何かを介して見ないと描けないので

 姉が自画像を描く(=自分自身と対峙する)にあたり介したものが妹なんだな~とも捉えています)

 

そして描いた「姉自身」の姿が「妹の描いた姉」の姿を塗り替える 

ほんとは妹の考える理想の姉とは違うということを認めた上で「次はもっと私をよく見て描きなさい」

もっとよく見て描きなさいは対話しましょうって姿勢を表していると考えます

「東京行っちゃう」と「言い逃げ」みたいにしてるのすごいこの…コンプレックス劣等感プライドの高さもろもろ感じる 今度はあんたの番よと投げといて距離をとる…自分とはいったん向き合えたけど今妹の投げ返してくるものを受け止める覚悟はまだないんだな…みたいな…まだ無いけどそれを妹に見せることはプライド的にできないため物理的な距離を理由に離れているんだな…次の行動を妹に委ねて…

それとは別に「就職」を決断し親元を離れて一人暮らしをするということで個としての精神的自立を表しているとも捉えています

 

最初に妹から目を逸らしたのは姉の方では?とも思ったのですが、

そもそも姉は妹に理想の姉の姿しか見せていない・見せようとしていなかった、妹も姉はすごいという気持ちが大きすぎたためにほんとの意味ではどちらもお互いのことを見れていなかったんだなと思いました

妹が姉を描いたことは対話の投げかけだったんだよねと思うしそれを絵でアンサーできたのも2人が同じ美術系の学校に通っているからで…これが家庭内だったらたぶん対話できていなかった 一度家庭から離れた場で個人として対話する必要があったんだなと思う そしてそれぞれを個として見てくれたのが芸術の場だったのだと思う

 

結末としてはやっぱり姉を追ってきた妹によりまたも逃げられなくなったわけですが

姉は姉で妹によって自尊心を満たしていたので まあ…

なんかここの女特有のべったりとしている感じが妙にリアルで気持ち悪い(偏見)(個人の感想)リアリティを感じるポイントって人それぞれだなあ

 

ということで、上のような役割を担うには全身の「ハダカ」が一番担える度高いかなて感じです 姉妹ということも含め、生まれたままの姿であることに意味があると思う

代替するのであれば顔のみの自画像などになるのかな~と思います

が、顔面のみだと誰だって「何も身につけていない状態」を見ることができるので説得力が弱くなる気がする

主人公もそれが玄関に飾ってあったところであそこまで「引っかか」らなかったと思うし…

(引っかかったとしてもあそこまで騒ぎ立てることに違和感がある、無断にしろ… 私の認知が歪んでるのかな…)

ストーリーを動かす装置として全身の「ハダカ」にしたんだな、という感想です


(上記とは全く別の観点として「服を着せることを避けるためのハダカ」というのもあると思います。服を着せるとなるとそれ自体に意味が生まれてしまうため…例えば制服なの?私服なの?スカート ?下着?丈は?どこまで肌を見せる? などなど 受け取られる情報を無闇に増やしてしまう)

 

●アートの場の利用

そしてそれができるフィールドとして「芸術」という場を利用しているのでは?と思います

「ハダカ」を「作品」として晒すことが許されている環境

妹の一般的な感覚からはずれている感性がそのまま存在できる環境

 

私はこの作品に「読後感の悪さ」を感じていますが、姉と妹の少し歪な感情を歪なまま、

一般的なものさしで測る必要性を避けて作品を進行できるのはそれが「芸術」の場であるからだとも思います

(芸術の場であれば何でも許されると思っているわけではなく、”一般的”な社会よりも諸々寛容に描きやすいよねという考えです)

 

 

 

私はどうしてひっかからなかったのか

勝手にハダカを描くな!それを飾るな!先生は止めろ!言い分を聞け!←わかる

 

わかるし物議をかもす内容だよな~とは思いつつこんなに反応があることに驚いていること、

そして自分があまり引っかかりを感じていないのはどうしてだろう??ということを考えていました

以下自分を見つめて文章にしてみたパートになります

 

■ハダカについて

●ハダカとポルノ

いろいろ考えて、私はハダカ自身には特に感情が生まれないのでは?という気づきを得ました

芸術系を通っているのもあるのかもしれませんが…

ただ脱いでるだけならそれは脱いでいったら最後は全裸になるよね、って感じだし

全裸自身は裸の体それ以上でも以下でも無いな…みたいな…

「感情を無視して道具として扱うな」「生きてるんだぞ」みたいに言われればまあ…そうか…と思いますが…

 

肉体は肉体そのものとしてしか見てなくて、ポルノは文脈から生じるという考えです

この作品だとハダカはジャンプ的試練の装置として扱われていたのであんまり引っかからなかったのかな

妹の描く姉がもっと何か官能的な感じだったらいやそれは…て思ってたかも(話変わってしまう)

 

前述しましたが乳首の色や胸の大きさの話をすること自体はポルノという認識は無く(身長の話するのと似たような感覚)

本人が恥ずかしがってたり嫌な気持ちになってたらそれは良くないよなあみたいな感じです

 

全然どうでもいいのですが、毎年夏が近づくとどうして女性の乳首は隠して男性は隠さないんだろう…いつからそうなってるんだろう…?

私が男性だったら上半身ハダカでプールとか嫌だな…と考えています(?)

 

 

●メタファーとしての「ハダカ」

例えばロボットもので精神世界ではハダカだったり

魔法少女もので変身シーンでいったんハダカのシルエットになったり

キャラクターが本心を吐露するシーンがお風呂だったり

 

ありのままの姿、本当の姿、精神としての姿

そういう文脈での表現としてのハダカに我々オタクは常日頃から慣れ親しんでいるのでは?

だから今回も「装置としてのハダカだな」という考えがすぐ生まれたのではないだろうか

「よくあるよね」と思ったのも特に衝撃や真新しさを感じなかったのもこれがあると思う

 

そして普段上記に触れない場合

ハダカに触れる場面はおそらく大多数がポルノの場面になるので

ハダカ→ポルノに行きつきやすいのでは??

 

芸術系を通っており裸婦像や石膏像、ヌードでの表現が芸術としてそこにあるという場を見てきたこと

二次元コンテンツでハダカでの表現を見慣れていること(……)が

今回の「女のハダカ」に引っかかりを覚えなかった理由な気がする

 

 

■創作物を創作物内の倫理観で判断する習慣

ルフィに殴っちゃだめとかナルトは孤児に配慮してないとかかっちゃん口悪すぎん?親の教育どうなってる?とか言うのは無粋じゃない?みたいなことです

創作物には創作物の中での倫理観があってそれは現実とは違うという考えが染み付いているというか…

私自身面白いけど倫理観が受け付けない作品ままあるのでそういったものをできるだけスムーズに処理できるようにという面もあります

 

今回は作品内の描写が現実に近い(主人公らの容姿や世界観の設定など)ことが違和感を生んでるのだとは思いますが

そこもあえてそうしてるんだろうな…(あえてそうしているので見逃せみたいな考えではないです)

 

また、私はに二次創作をたしなむ種類のオタクなのですが

「作品内のキャラクターを使って頭の中でごっこ遊びをする」習慣に馴染みがあり

「自己を投影する」という感覚が少ないことも理由の一つなのでは?

 

擁護になってしまいますが、主人公(姉)は妹が無断で想像上の裸体を描いたことをキモイと言ってるし抗議してるので

作品内でのキモイポイントは我々と一致してない?別に肯定はしてなくない?と思いますがどうなんでしょうか

 

 

■信頼できない語り手

基本的に私は一人称の物語に書いてあることが作品内での客観的な事実であるとは考えていません

全てそのキャラクター自身の感覚・倫理観・思考を通した上での事実であり自己申告です

私たちも「この人にはこれは言わないでおこう」とか「楽しくないけど楽しんでる風にしよう」とかなんかそういうのあると思います

そういうことです(?)

 

例えば少女マンガで主人公がかっこいいと思ってる男の子が客観的に見てもかっこいいとは限らないし

一人称で「親友」とされているキャラクターが向こうから見ても親友と認識してもらえているのかはわからないし

BLの攻めはすぐ受けの睫毛を長いって言うし腰を細いって言う

 

じゃあほんとはどうなのよ?!ていうのは特になく

一人称の作品は一人称の視点それ自体をそのまま受け取って楽しむものだと思っています

 

今回の作品も一人称なので

序盤に姉がマイナスな発言や出来事ばかり拾っていた(マンガに描かれていた)のは

妹に裸体を描かれた件で気が立っていたのかなとかも想像していました

(これは単にストーリー展開上のものだと思いますが)

 

何事も情報は取捨選択されて伝えられていると考えているため

「描かれていることが全て」で「描かれていないことは考えられていないことである」という考えはう〜んと思います

(結局出来上がったものが全てであり受け取られるものが全てであるとは思っています)

(メタ的に作者がそれを「描いた事実」「描かなかった事実」を批判されるのはわかる)

 

 

まとめ

批判がでるのはそうだよね、と思う

けど普通に読んでる人たちみんなに対して考えが足りてないんじゃないんですか?みたいな主張はどうなの??と思います

 

読んだけど特に思想を支持はしてないよとか

面白いけど引っかかりはあるよねとか

そういうのもあると思うし

そういうのも全部助長してると捉えられるのであればそれは…そうだね…

 

私は一般的な(というと不適切かもですが)感性から見ると違和感がある描写も含めて

思春期特有の不安定さ姉妹の感情、関係性、芸術という場の歪な倫理観をあえて描いてると捉えたので

これはこういう話だなって感じだしこの作品の倫理観が広く受け入れられるものとは思えなかったのであんまり危機感を覚えなかった

(ので、私の想像より多くの人が良いやん!みたいに言ってるのもマジか、みたいな気持ちになった)

(個人的にはよっぽど大人気少年マンガ特有のホモソーシャル感や潜在的マッチョ思考がうわ~て思っています)

 

配慮はもっとできたのかもしれないけど

仮に「そういう表現があります」とか表記してしまうと

「そういう表現」と認めた上で発表してるのかよ、作品下げろとか言われそうだなとも思う(偏見)

 

総評?としてはインターネットに放流するとこうなるんだな…という気持ち

「女のハダカ」ってだけでこんな感じになってしまうのが…その…こんな感じになってしまうゆえんなんだろうな…(だけとか言うの良くないですよ)

話ずれるけどだからみんな特殊性癖本はネットに上げず同人誌で出すんだろうな…(?)

私は妹というていで運営されている作者のツイッターはかなりキモイと思っています

 

完全に一人で生きているとかでない限り人間は生きてること自体が表現することになってしまうと思っているので(スケールがでかい)

これからもこういうこと考えて生きていかないといけないな~ おわり

 

 

具体的な批判?について考えてみたいろいろ

●マンガの向こうの空白

姉が悲しんでいないとか教師がフォローしていないとか突っ込まれてたけど

ほんとうにそうなのか?と思うとわからない

マンガでは描かれていないだけでもしかしたら向こうの世界では悲しんでたりフォローされてたりしたのかもしれない(し、私は姉の感情に関しては「普通は悲しむ」「悲しまないといけない」「悲しんでいる表現を描かないといけない」などとは思いません。こういう場面ではすべからくこういう感情になるはずだ、とか感情をコントロールしようみたいな考えの方がよっぽど暴力的に感じる)

マンガはマンガの世界で起きていることの一部を切り取ってこちらに伝えているものだと思っているので

「マンガの世界」で「起きていないこと」を指摘するのはどうなんだ?と思います

 

メタ的に「それを描いていない作者」を批判するのはわかる

 

ヌードでなければ、年齢の近い女兄弟でなければ、芸術というフィールドでなければこの短いページ数の読切でまとまる内容にはなっていないと思う

(まとめているのでマンガが上手いな~と感じています)

 

この物語は姉の一人称の物語で姉と妹の、姉と、理想の姉自身との物語なので

他の要素が削られているのはそう作られているから

 

描いていないものを描けというのも描いていないことは考えていないと判断するのも横暴で無責任に感じます

 

 

●男兄弟では描けないのか?

男兄弟でも同様の内容は描けるかと思いますが、個人的に女の姉妹より違和感出そうだな~と思います

というのも、現実男二人とも芸術系の学校(しかも高校)に通わせるか?というとう~んと思うので…

この作品が発表されたのは数年前とも聞いているので、今よりもっと「男が養う」「大学を出ないと良い職に就けない」「芸術は食えない」という固定観念が親世代にあるのが自然と考えてしまう

その中で「兄と同じ高校行きたい」という理由だけで弟を芸術系の進路に進ませるのか…?と考えると、少なくとも女姉妹よりは「ん?」と引っかかる人が増えそう このへんもなんかもう現実…て感じですが

 

テーマと関係無い違和感は減らすに限ると思っているので、私が描くとしても女にするかなあ、という感想です

それとは別に女のハダカが描きたいとか思っているのかもしれませんが作者じゃないのでわかりません

 

また、完全に偏見ですが男同士となると一定層には「BL」として消費されているなあと思います

たぶん私のタイムラインにも「このBLがすごい」みたいな感じでRTされてきそう(偏見)

(BLとして消費されることが悪いことなのかというと考えがうまくまとまらないので保留したいです。ただ男兄弟で描いた場合は女姉妹で描いた場合とはまた異なる問題が別途でてくるだろうということと、そのことについてはどう考えてるんだろう?という疑問です)